「精神医学の神話」 T.S.サズ著 岩崎学術出版社 の第二版序文を抜粋

第二版序文


 あらゆる著作というものは、その作者の自伝的背景をもっているもである。私が本書を書きはじめたのは、1954年のことであるが当時私は海軍に召集されていた。そのことで、毎日、精神分析療法を実践する、という重荷から解放されて、その間私のなかに蓄積されつつあった問題意識を文章化する時間が得られた、というわけである。できあがった原稿を私はまずある出版社に持参したが(1957年か1958年であったと思うが)、詳細に検討された結果、出版することを拒否されてしまった。ついでその頃Harper&Brothers者医書出版部(現在のHarper&Row出版部)部長であった、Paul Hoeber氏に原稿を送付したが、彼は快くそれを受け入れてくれた。本書のように、精神医学や精神分析のそれまでの知見を、ほとんど否定する内容をもっているものを出版してくれた勇気に対して、私は今でも心から感謝している。
 本書が刊行されて1年もたたないうちに、ニューヨーク州精神衛生担当長官は、私が精神疾患の存在を「信じない」のだから、医学部の教職を辞任すべきである、と主張した。この事件の詳細などについては、本序文では触れないが、ともかく、この本を出版したことで、私の身辺にはたくさんのことが起こった、といえば十分ではないだろうか。しかしまた、精神医学そのものにも、本書による波紋が、かなり広がったといってもよいだろう。
 さて、いまになってこの本を書こうとすれば、大分違った書きかたをすると思うが、私としては、その内容については、現在でもかなり満足をしている。しかしながら、本書(The Myth of Mental Illness)の初版を読み返してみると、その理論展開がくどすぎたり、引用文の多すぎること、あるいはまた、無用な専門用語の多用などが目につく。そこで、この改訂版では、本書の基調に直接関係のない部分はすべてはぶき、引用も最低限にとどめ、そして、文章全体を必要な限り平面に書き直すことにした。また、この序文と最後の簡単な要約とを除いては、新しい資料や議論は一切付け加えないことにした。というのも、それをはじめてしまうと、さいげんのないことになってしまうし、1961年以降に出版された私の著作のなかで、本書の考え方がさらにひきつづき展開されてもいるからである。
 私がこの本で提起している諸問題は、それを述べることは容易であるが、強力な文化的ないし経済的圧力が「正しい」解決をはばんでいることもあって、その問題の意味を明らかにしていくことはかなり困難なことである。すなわち、たとえば次のような疑問と関係してくるからである。病気(disease)とは何か。医師の役割とはそもそも何なのか。精神病(mental illness)とは何か。疾病、診断、治療といったことを、いったい誰が定義づけするのか。医学・精神医学用語のつかいかたや、医師・精神科医と市長・患者との力関係を誰がコントロールするのか。人はみずから自分は病気だ、と申し立てる権利をもっているのだろうか。医師であれば、ある人のことをおまえは精神病だ、といえる権利をもっているのだろうか。痛みを訴えている人と、自分は病気だと、申し立てている人とどこがちがうのだろうか。ある人の無作法を訴えている医師と、その人を精神病患者であると、ときめつける医師との間に、何か相違があるのであろうか。このような疑問に答えることで、本書の内容を先取りすることをしないで少し私の推論を展開させて欲しい。
 まず、ごくありふれた身体的疾患の概念がどのように成立したか、ということをきちんと理解しておかないと、精神疾患という概念を納得いくように分析することはできないのではなかろうか。たとえば、私達がある人のことを病気である、という時に、実は2つのまったくちがった事柄を意味しているつもりである。すなわち、まず第1に、その人ないしは主治医が(場合によってはその双方が)、その人間の身体の異常なり機能不全のあることを認めている、ということであり、もう1つのことというのは、その人が自分の苦痛に対して、医師の助けを求めているか、少なくともそれを期待している、ということである。このように、「疾患」(illness)という言葉には、患者ないし医師あるいは他の誰かが、その人には異常な生物学的状態が存在している、とともかく認めているということと、暗黙のうちに社会から期待されている患者という役割をになうこと(すなわち治療をうけるということ)、といった2つの意味がこめられているのである。
 私達は、まさに異常な生物学的状態に苦しんでいない人のことを、病気であるとは判断しない(少なくとも、身体的疾患があるとは考えない)。また、原則として、自分の意志で病院に来ない場合に、一方的にこちらで医療を必要とする患者である、ときめつけることもしないはずである。すなわち、現代の西欧医学には、医師の仕事は、身体疾患を診断し治療するということであり、また、その仕事を患者の同意なしにすることはできない、という2つの暗黙の前提があるのである。換言するならば、医師というものは決して経済的、道徳的、人種的、宗教的ないしは政治的「疾患」ではなくて、身体疾患を治療するように教育されてきているのである。そしてまた、医師は(精神科医を除いては)嫉妬、怒り、恐怖、貧困あるいはその他人間をとりまいている数々の不幸ではなくてまさに身体疾患を治療するのだ、という自負心をもっているし、患者もそのことを期待しているのである。したがって、厳密にいうならば、病気ないし疾患は、肉体をおかすものであり、精神疾患などというものは存在し得ないことになってくる。すなわち「精神疾患」(mental illness)という言葉は、ひとつの比喩(a metaphor)にしか過ぎないものである。
 現在の精神科臨床を理解していくためには、まず、精神疾患という考え方がどのように生まれてきたのか、また、その概念が機能してしまっている道すじなどを知っておく必要があるだろう。このことは、身体疾患がないにもかかわらず、まるでそれがあるかのように振舞う人間が実際にいる、という事実からはじまっている。さて、こういった人に対して私達は病人として取りあつかってよいのだろうか。どのようにして対応していくべきなのだろうか。
 19世紀前半の頃までは、このような人間は、疾患を偽造しているとミナされ、仮病使い(malingerers)といわれていた。また、こういった人間を医療の名をかたって治療の対象にするような人間は、詐欺師であるとされ、ヤブ医者(quacks)と呼ばれていた。
 しかし、シャルコー、ジャネ、またとりわけフロイトの影響を受けて、このような考え方は、根底からくつがえされることになった。すなわち、病気のまねをする人は、正しくは病人なのであり、ヒステリーと呼ばれるようになり、医師の名をかたって、たとえば、「催眠」療法を行っていた素人は、まさに治療家として認められ 、精神療法家と呼ばれるようになったのである。このことはまた、「魔術」(spells)と思われていたものは「発作」(seizures)であり、ヤブ医者は「精神分析家」(psychoanalysts)である、といった言葉づかいや意味内容の大きな変化をまき起こしたのであった。
 この精神医学的、精神分析的「革命」は、病気のふりをしている人間を病気でないものとして扱うことを、野蛮きわまりない、まったく非科学的なことである、とすることになったのであった。すなわち、私達は、このような人間こそが病気にかかっているのであり、まさに精神疾患なのだ、ということを「知らされ」、「認めさせ」られることになったのである。
 しかし、この視点は単純なことであるが、重大な誤りの上に成り立っている。すなわち、それは、ホンモノとニセモノ、文字通りの意味と比喩的意味、あるいは医学と道徳といったことを誤解し混同しているように思える。換言するならば、私は精神疾患というものは、いわば比喩的疾患(a metaphorical disease)である、と考えている。ちょうど、こわれたテレビジョンとおもしろくないテレビ番組との関係が、身体疾患と精神疾患とのそれににているのではないか、と感じている。私達は、「病んでいる」(sick)という言葉をしばしば比喩的につかっている(たとえば、経済状態が「病んでいる」、時には全世界が「病んでいる」とさえいうことがある)。しかし、心が「病んでいる」というときに限って、事実と比喩をとを混同したり、場合によっては、大きな誤解をしてまでも、医師に「疾患」を「治療」するように要請してしまっている。このことは、ちょうどテレビを見ている人が、その番組が気に入らない、といってテレビの修理人を呼びつけることによく似ている。
 さらにまた、身体疾患のない人が病人のふりをすることのできることと同じ意味で、医師が、まったく健康で、治療など求めていない人間も「病人である」として、自分の「患者の」病気を治療しているふりをすることもまたあり得ることである。このような医師は悪意に満ちたおせっかいな者なのであろうか。あるいは、慈悲深い治療家とみなすべきなのだろうか。今日では、このような医師こそが治療者であり、精神科医である、とみなされている。これはしかし、重大な誤りである。私は、精神医学的介入(psychiatric interventions)というものが、医学的なものでなく、道徳的問題に向けられている、と考えている。いいかえるならば、自発的になされた信仰告白が、実は強制された信念であるのと同じような関係が、患者が求めている精神医学的援助と実際に行われている精神医学的介入との間にもあると思っている。
 ところで、精神疾患が病気の一種であり、精神医学が医学の一分科である、ということは広く認められている。しかも、人びとは、自分が「病気にかかった」としばし思ったり、いったりするのに、「精神病にかかった」とは、まずめったに考えもしない。この理由は、きわめて簡単なことである。すなわち、人びとは、悲しんだり、有頂天になったり、劣等感におそわれたり、誇大的になったり、また、自殺や殺人を考えたりなどするが、決して、そんな時でも自分が精神病になったのではないか、とは感じないものである。だれか他人が、その疑いのあることをほのめかすわけである。だからこそ、身体疾患が必ず患者の同意に基づいて治療されているのに、精神病の場合には、本人の同意さえなしに、治療が行われているのである(今日、個人開業医の下に、精神分析的ないし、精神療法的援助を求めていく人達は、自分が「病気にかかって」いるとか、まして「精神病にかかって」いるとは考えてもいないし。むしろ、生活上の問題と考えて相談(councelling)にのってもらっているのである)。つまり、医学的診断というものは、本当の(genuine)病気の名前であるのに、精神医学的診断というものは、烙印(stigmatizing labels)でしかないのである。
 これまで述べてきたことによると、精神疾患や精神医学をめぐって、2つのまったく相対立する視点があることになる。すなわち、伝統的な、現在でも広く受け入れられている視点によれば、精神疾患はまぎれもなく、他の疾患と同系列におかれ、したがって、治療もそうであり、精神医学は立派に医学の一分科であるということになる。しかし、私が明らかにしようとしている視点によれば、精神疾患とかまして精神医学的治療といったものはあり得ないことになってくる。また、「精神医学的治療」とされている介入は、自発的なものと強制的なものとに、はっきりと分けてとらえられなければならない。すなわち、自発的介入というものは、人がみずからを変えようとする努力をさすことであるし、強制的介入というものには、本人の意思を無視して、その人間を変化させよとするということである。そしてまた、精神医学は、まさに医学ではなくて、道徳的、政治的事業なのである。本書は、伝統的精神医学の誤りを暴露し、私の述べた視点の正当性を示していくひとつのこころみである。
 本書の改訂版を出すにあたって、私の兄弟であるGeorge Szasz博士の協力を得たことに対して心から感謝したい。また、出版社であるHarper&Row社、そのHugh Van Dusen氏、Ann Harris夫人のお世話になったことにも感謝をささげる。
 1973年7月1日
     ニューヨーク シラキュース

Thomas S. Szasz, M.D.

(The Reuse Permission Granted by Thomas S. Szasz, M.D.) 


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